ランニングされている、いろんな方のブログを読んでます。
で、皆さんホント早いんですよね。
そうしてたくさんのブログを読んだりしていると、無意識的になんですけど、自分より早い人の記事は「すっげぇなぁ」と思うし、自分よりゆっくりな人の記事は「微笑ましいなぁ」と思ってしまうことが往々にしてある。と思う。
それって、悪意はなくても、それぞれの人を「優」と「劣」で区別してしまっていることに他ならない。
決して「早い=優れている」「遅い=劣っている」ではない。
ないのだけれど、どこか区別してしまっている自分に気が付く瞬間があって、それは相手にしてみればとても気分の悪いものであるに違いない。
そういうことはランニング以外でも世の中に溢れかえっていることで。
そして、いろんなことが周囲の人間より優れている(と、世間一般の基準では言われる)人からは、今いる場所より低い(とその人が感じる)ところの事象は感じにくいもの。
例えその人が「いや、そんなことはない!私は弱者(と、ここではあえて書く)の気持ちがよくわかっている!」と言ったところで、それは本質的には「わかって”あげて”いる」という、自分の優位性を確信しているからこそ出る、言わば「勝者の余裕」というものだ。
もしかすると、その人自身、過去に「弱者(しつこいようだが、適切ではないもののあえてそう書く)」という立場にいて、そこから努力して立身した人かも知れない。
そのような人なら弱者の気持ちがわかるかと言うと、そうではないと思う。
自分と同じように努力して立身する人には理解があるかも知れないけれど、努力することをなかなか選択できない人もいる。
そういった人に対して「自分を成長させる為の努力ができない者」というレッテルを無意識に貼り、勝者の余裕で「ま、そんな人もいるよね。生き方はそれぞれだし、仕方ないんじゃない(自分は違うけど)」となってしまうのである。
そう考えると、優れた人というのは、なかなかかわいそうと言うか、もったいない。
周囲より劣っている(と、本人が感じている)人は、「すっごいなぁ」の連続だ。
「この人は話術が自分より優れている!すっごいなぁ!」
「あの人は先を読む力が自分より優れている!すっごいなぁ!」
そんな風に、毎日のいろんな人の行動に、頭脳明晰、勇壮活発、一騎当千、奥義秘伝な人たちよりも、より多く感動できると思う。
だから、世間的に50点だろうと、30点だろうと、決して落ち込むことはない。
何をしても100点満点な人は、100点の人を「自分と同じくらいだな」と思うだろう。
80点の人を「ああ、そのくらいか」と思うだろう。
でも、いっつも30点な人は、30点の人の気持ちをわかってあげられる。
40点の人を「すごいね!」と言ってあげられる。
30点な自分。大変結構。熱烈歓迎。老若男女。年齢不問。経験不問。アットホームな職場です。
まぁ。そんなわけでね。
何が言いたいかと言うと、今日、鼻毛が出てました。僕。
職場で「鼻の毛が出てますよ」と言われたときの平常心顔の装いっぷりね。
その後、休憩室で「教えてくれてありがとね!ナイスアシスト!」って言ったときの「あぁ、はい。眠たいんで寝ます」とのクールな返しに生えてる鼻毛全部出た。
僕、社会的に30点ありますか。